令和6年8月19日、東京都荒川区の回向院にて磯部浅一烈士の墓参を行った。
以下当日の祭文。
「茲に、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一各烈士の命日を迎ふ。
顧みるに今を過ぐる九十年前、政官軍財各界正義を忘れて閥族をつ
北先生かつて辛亥革命に奔り、日本改造法案大綱を著し、高弟西田
昭和維新も夢なれや。翻って今日の祖国を見れば、政治を委ねるに
黒龍會は、維新の精神を継承し、国體復古を念願し、自主独立の回
茲に、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一各烈士の命日を迎ふ。
令和六年八月十九日 黒龍會有志一同
令和6年6月7日から同月22日、横浜中華街の「天空山磊落堂」ギャラリー内に於いて「興亜先覚志士展」が開催された。主催は黒龍會、後援はアジア新聞社。
同展では犬養毅、井上日召、内田良平、小川平吉、勝海舟、萱野長知、来島恒喜、権藤成卿、西郷隆盛、末永節、杉山茂丸、武田範之、頭山満、中野正剛、平岡浩太郎、広田弘毅、福沢諭吉、孫文、黄興、朴泳孝といった興亜論の先覚者や玄洋社に連なる人々の書が展示された。
令和5年8月19日(土)、北一輝先生の命日にあたる本日、黒龍會同人は泰叡山護国院瀧泉寺(目黒不動尊)にある「北一輝先生之墓」に墓参した。北先生は二・二六事件の「首魁」とされ、昭和12年8月19日に、西田税、磯部浅一、村中孝次と共に処刑された。北先生は二・二六事件の計画そのものに「首魁」なる立場で関わった事実はなく、北先生、西田先生を裁いた特設軍法会議の裁判長、吉田陸軍大佐は手記に「全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。抑々今次事変の最大の責任者は軍自体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、国民として断じて許し難きところ」と記されているように、軍による責任転嫁、暗黒裁判であった事が明らかであり、軍幕僚が権力の影に隠れてどさくさ紛れに殺してしまおうという意図があったのである。まさに北先生、西田先生の叛乱罪による死刑は軍部の既定路線であったのだ。
祭文
嗚呼、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一各烈士の命日に当り、御魂に謹みて申す。
顧みるに、昭和の聖代、国運隆々と雖も、東亜の風雲穏やかならず、海内亦た混迷、軍閥軍を乱し、財閥財に淫し、政党為す所を知らず。あはれ国民困窮の苦しみを極む。
ここに北先生の薫陶を受け、西田先生を師と仰ぐ村中、磯部両先生、同志将校民間有志と謀り、恰も昭和十一年二月二十六日、決起起って君側の奸に義弾を放ち、首相、陸相官邸、新議事堂其の他を占拠し、天下に尊皇討奸の義挙を示す。然るに時利非ず、妖雲却って暗黒を深め、聖明を蔽ひ奉る。無念なる哉、蹶起の士は捕はれ、ある者は自決し、ある者は処刑さる。わづかに四烈士残って軍事法廷に正義を唱へ、秘密文書を発して朝野に是非を問ふも、遂に十二年八月十九日、代々木ヶ原に斃れ給ふ。
折しも盧溝橋事件勃発よりひと月、アジア民族相争ふに至り、大陸の戦火祖国の滅亡を招かむとす。是れ四烈士の最も憂慮せられたるところなりき。
嗚呼、刑場の露と散りし人の胸中を思へば、涙潸然たらざるべけんや。すなわち黒龍會主催の祭を執り行ひ、一同集まって墓前にぬかづき、鎮魂の祈りを捧げる所以なり。
四烈士没後八十七年、戦後七十八年の夏、なほ国運恢復の道遠し。我等憂国の志を継がむとする覚悟なり。願はくば北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一各烈士の御魂、怒りを鎮め、長く祖国を守護し給はむことを。
令和五年八月十九日 黒龍會一同
6月9日、駐日ロシア大使館に於て、
6月12日の「ロシアの日」を祝賀するレセプションに田中会長が招待され参加した。
G.A.オヴェチコ駐日ロシア臨時代理大使は挨拶で、
「日本の社会には良識のある、我が国に対して好意的な人々も少なくありません。こうした人々は、岸田政権が採る路線の誤りを見抜き、米国を気にせず、日本の国益を第一に行動しようとしています。両国の国民の幸福と繁栄のため、私たちはこのような人々と、これからも力を合わせていく所存です。(中略)私たちはこれまで同様、在日同胞の権利の保護に一層注力しています。同胞に対する差別には、どんな小さなものであれ、あらゆる手段を用いて断固として対応する構えです。ルソフォビアの現れに対しては、力を合わせて対抗することが重要であると考えています。昨今の困難な状況にもかかわらず、公正なロシアの立場を守るために、精力的かつ公に協力して下さる方々すべてに感謝いたします」と述べた。
また、会場では参議院議員の鈴木宗男氏と握手を固く交わし、鈴木議員から「引き続き頑張ってください!」と熱く激励された。
G7広島サミットへの抗議運動を行った弊会々長で、日露善隣協会々長の田中健之は、来広中にロシア国営通信社である「スプートニク」の取材を受けた。
スプートニク記者から協会の設立経緯を訪ねられた田中会長は、「私の先祖は黒龍會を組織しており、ロシアへ非常に深い関心を抱いて、明治時代、単身シベリア横断してロシアに行きました。その時に、ロシア人は日本人と本党に気持ちが合うことを知ったのです。『スラブよ!汝の友は東方より来たれり』という言葉を残しています。明治時代、黒龍會はロシア語学校も運営していました。そういう先祖のおかげで私はソビエト時代からずっとロシアに興味がありました。」と語ると共に、「日本とロシアとの関係が悪くなることは非常に私は心が痛む。逆によくない時代だからこそ、頑張って仲良くなるような努力をしたいのです」と、あくまで善隣友好を目指す姿勢をみせた。
記事はこちら 「【特集】『日露の友好は日本が自立する道』」
ロシアの特別軍事作戦が開始されてから一周年を迎えた令和5年2月24日、ウクライナ大使館、アメリカ大使館、日本の主要路への抗議運動を展開すると共に、「ドンバスの人権とウクライナ問題を考える国民集会」を開催した。
令和4年6月9日、在日ロシア大使館は「ロシアの日」のレセプシ
本会からは田中健之会長が招待された。
ロシアによるウクライナに対する特別軍事作戦で、アメリカの追従
鈴木宗男参議院議員の乾杯の中、ロシア料理が参加者に振る舞われ
5月8日、江東公会堂において「日本外交の求める国民大会~日本を滅ぼす対米追従外交とウクライナ問題~」が開催された。
大会には80名以上が大会に参加し、立ち見者が出るほどであった。
大会は第一部に講演、第二部にパネルディスカッション、そして第三部に「ウクライナ・オン・ファイヤー」と「ドンバス」というドキュメンタリー映像の鑑賞という三部構成で行われた。
田中健之会長による開会の挨拶がおわると、ロシア系の学童、生徒へのいじめや、在日ロシア人の飲食店や商店へのヘイトクライムが続いている現状を、カンノ・エレナ女史が報告した。
第一部では元初代防衛大臣の久間章生氏、ロシア大使館のイーゴル氏、ドネツク人民共和国を代表してオザワ・ヤニナ女史、ルガンスク人民共和国を代表してイリーナ女史、祖国再生同盟代表の木原功仁哉弁護士、黒龍會会長の田中健之が講演を行った。
大会では、部ごとの休憩時間前に篠原常一郎氏によるロシア歌謡の演奏があり、大会参加者から大変好評であった。
今日のウクライナ紛争はドンバス問題から始まったものであり、ドンバスの二人の代表者は、8年間にわたるドンバス戦争を終わらせるためにロシアは特別軍事作戦を発動したのであり、「ロシアはドンバスの解放者」であることを主張し、ウクライナ政府の非道さを訴えた。
第二部のパネルディスカッションでは田中健之会長をはじめ、総合司会であった南出喜久治弁護士、鈴木信之氏(日本国民党代表)、佐藤和夫氏(英霊の名誉を守り顕彰する会々長)、石濱哲信氏(一般社団法人日本安全対策推進機構代表理事)、篠原常一郎氏、クロチキナ・ナターリア女史、オザワ・ヤニナ女史、リャザノワ・イリーナ女史という顔ぶれで討論が行われた。
田中健之会長は「8年間犠牲を強いられ続けているドンバスの支援を行い続ける所存です」と話している。
去る3月10日、ウクライナ紛争に於ける日本政府の対米追随外交に対する抗議、ならびにウクライナ人とロシア人を対等に扱うこと、また、ドンバス人民の避難民の受け入れなどの要請行動のため、ルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国の連邦国家である「ノヴォロシア」の国旗を高らかに掲げ永田町に赴いた。11日には、渋谷ハチ公前広場で情宣を行った。
この運動で掲げられたノヴォロシアの国旗は、東部ウクライナにおいて、ウクロナチズムとの戦火の中を駆け抜けドネツクから贈られた旗であり、掲げられたのはアジアで初のことである。
内閣府、自民党本部、外務省ロシア課には、あくまで日本政府は中立という外交的立場を堅持することを申入れ、法務省人権擁護局ならびに出入国管理局には、在日ロシア人のビザ発給を、他国人民と差別なく滞りなく審査し発行すること、ウクライナのみならず、ドンバス人民の避難民も広く受け入れること、また避難民には即座に難民認定をすることを申入れ、文科省には両親または片親にロシア人をもつ子女に対する学校内でのイジメへの対策を講じることを申入れた。
また、防衛省には防衛装備品を自衛隊機でウクライナへ供与したことへの抗議、三月初頭から始まった北方四島におけるロシア海軍太平洋艦隊の大規模軍事演習に対して十二分に警戒すること、文官のウクライナ支持の暴走を抑え、アメリカ追従の方針を改めることを申し入れた。
令和3年10月18日、田中健之会長は来島恒喜烈士墓前祭に参加しました。
132年前の明治22年10月18日は、玄洋社員の来島恒喜が不平等条約改正案に反対し、外務省表門で大隈重信に爆裂弾を投擲した日であります。
来島烈士はその後、宮城を拝し、懐中より取り出した短刀で自らの首を刎ねて壮絶な自決を遂げます。
大隈は右脚を失い外相を失脚したため条約改正は阻止されました。
襲撃された大隈本人は、来島烈士の生き様と死に様に感動し「赤穂浪士よりあっぱれだ」と讃え、彼の葬儀には花輪を届けています。
故郷福岡で行われた葬儀には千人以上の人々が参列し、頭山満は「天下の諤々は君の一撃に如かず」と、一言弔辞を述べました。
来島烈士の維新者としての精神は、岡田満、中岡艮一、佐郷屋留雄、血盟団、五・一五事件、二・二六事件、山口二矢、三島由紀夫、森田必勝などの人々に受け継がれていきました。
来島烈士については、アムールの風の第三回に詳細が載っております。是非ご覧ください。