黒龍會は、明治34(1901)年2月に玄洋社員の内田良平(平岡浩太郎の甥)の同志、先輩らを中心に東京神田の錦輝館で発会式を行い結成された組織です。
黒龍會という名前は、シベリア横断という壮挙を終えた内田良平が、ネルチンスクからハバロフスクまで黒龍江を下った時に、花季が訪れた黒龍江の川原一面に花々が美しく咲き乱れるのを見て、「我々の使命は、全アジアの社会をこのような花苑にすることだ」と固く心に誓い、これを体現すべく会名を「黒龍會」としたのが由来です。
玄洋社は、明治12(1879)年12月に頭山満、箱田六輔、進藤喜平太らの「萩の変」に連座した系統と、平岡浩太郎、内田良五郎らの「福岡の変」に加わった系統という二つの系統が合同して、平岡浩太郎を初代社長に福岡で結成された自由民権運動の地方政社で、板垣退助が率いる土佐の立志社と双璧を成していました。
「福岡の変」で処刑された人の中には、筑前勤皇党の遺児たちも多く、そういった人々に強く影響を受けた玄洋社は、筑前勤皇党の系譜を引くものと言えます。
大国ロシアの南下政策に対し、内田良平をはじめとする黒龍會の人々と、樽井藤吉の『大東合邦論』に共鳴した李容九をはじめとする韓国一進会(東学党の後身)とが、日本と韓国が対等な関係の連邦である「大東国」を建設しようという運動がありました。
しかし悲しいことに、日本政府は「合邦」を「併合」にすり替えてしまい、日韓の愛国志士たちの夢は叶いませんでした。黒龍會の人々は、表参道に「日韓合邦記念塔」(右写真)を建設し、「日韓はあくまで『合邦』であり、『併合』ではない。」という信念を政府に対して貫きました。一進会に属していた人々の大部分は、日本政府に裏切られたことから親日から反日に変わり、抗日武装闘争などを行うか、朝鮮民族独立運動を行うようになりました。
中国同盟会(中国国民党の前身)は、興中会(広東派=孫文)、華興会(湖南派=黄興)、光復会(浙江派=章炳麟)の革命各派が合同して東京で結成しました。
中国同盟会の結成準備会は、東京赤坂の内田良平宅(黒龍會本部)で行われ、同盟会の結成は玄洋社、黒龍會、またそれに連なる人々の尽力によって実現しました。のちに辛亥革命は成功し、アジア初の共和政体国家である「中華民国」が建国されました。
写真前列右より 孫文、小山代議士、末永節
後列 清藤幸七郎、宮崎滔天、内田良平
日本に本格的なカレーを伝えた人物がラシュ・ビハリ・ボースというインドの独立革命家です。
ラシュ・ビハリ・ボースは日露戦争の日本の勝利に影響を受け、独立革命を志向します。インド総督のハーディング卿爆殺未遂事件、ラホール事件の首魁であるビハリ・ボースは指名手配され懸賞金をかけられました。ビハリ・ボースは日本に亡命します。
在京インド人たちが開催した大正天皇御即位祝賀会に招待されたビハリ・ボースは奉祝会に参加しますが、会場に紛れ込んでいたイギリスのスパイによってイギリス本国の知るところとなり、日本政府に外交圧力をかけ国外退去命令を発令しました。
困ったビハリ・ボースは同じく日本に亡命していた孫文に相談すると、孫文は自身が世話になっている玄洋社の長老である頭山満を紹介しました。玄洋社、黒龍會の人々は日本政府の冷淡なる国外退去命令に反対し、ビハリ・ボースを新宿中村屋というパン屋の二階のアトリエに匿いました。
亡命生活を支えた中村屋主人の相馬愛蔵、黒光夫人にビハリ・ボースがカリーライスを振舞ったことが縁となり、昭和2年に「純印度式カリーライス」を発売しました。これが「中村屋のカレー」の由来とされています。
この後約4年間、英国政府の追及が続き、ビハリ・ボースは隠れ家を移り住む逃亡生活を送りますが、それを支えたのが相馬夫人の長女・俊子でした。頭山満の媒酌でビハリ・ボースと俊子は結婚し、英国政府の追及が終ると一家は中村屋の敷地内に新居を建てて生活しました。
写真は、手前から一人おいて犬養木堂、ボース、頭山満、内田良平、葛生能久
このように、博愛任侠なる民間の日本人志士たちはアジアの独立革命を支援してきましたが、日本政府はどうだったかというと、日本に渡ってくるアジア独立革命の志士たちを迷惑がり、とても冷淡な態度でした。なぜなら欧米列強から、日本が列強の利権を脅かす存在と警戒され、外交問題となるのを嫌がったからです。西欧覇道の走狗となっていた政府に対して、民間の志士たちは、たとえ政府と対決することになっても、アジアの独立革命を支援し続けたのです。(文責・仲谷)